裁かれない裁き──可視化されない証拠と、ルミナローグ司法のかたち

ルミナローグ

裁かれない裁き──可視化されない証拠と、ルミナローグ司法のかたち

文:レイン・オグラ(未来倫理ライター/vibliq寄稿)

証拠はどこにあるのか?
──それは「空間に在る」と答えるのが、ルミナローグの司法である。

かつて裁判とは、物的証拠と証言を並べ、人の論理で正しさを導く作業だった。
だがXETが浸透した今、その構造は根本から転換している。
証拠は提出されず、裁判も行われない。
代わりに、「必要な答えだけ」がXETから返されるのだ。

たとえば、ある人物が過失を問われたとしよう。
XETは、その人物の過去の行動ログ、感情記録、判断の逡巡、目線の揺れまで──すべてを把握している。
だがその情報は、誰の目にも触れない。
裁定に必要な条件だけがAI司法支援層に送られ、「責任は存在するか?」という問いにYES/NOで応答する。

ここで重要なのは、“なぜそう判断されたか”は一切開示されないという点だ。
その理由は、パピリアによって記録される感情・意志・判断のプロセスが、他人にとって再現不可能な“本人だけの文脈”であるため。

人は何を考え、何を見て、何を信じて行動したのか。
XETはすべてを記録しているが、それを**再生することは「人格の侵入」**を意味する。
だから、ルミナローグでは再生は行われない。
判断は下されるが、覗き見ることは誰にも許されていない。

この仕組みを、ルミナ司法では「記憶裁定プロトコル(Memory Arbitration Protocol)」と呼ぶ。
個人の内的プロセスにアクセスすることなく、判断だけを社会に返す。
まるで、空間のなかで意識と意識がすれ違う瞬間の“重なり”だけが、裁きの根拠となるのだ。

このプロトコルが成立する背景には、ルミナ社会の価値観がある。
ここでは「罰する」ことよりも、「重なる可能性」を再調整することに重きが置かれる。
そのため、ほとんどのトラブルは、**意志の共鳴による“修復的合意”**によって終結する。

しかも、XETは**「修復される可能性があるか」も判断材料として取り込んでいる**。
つまり、法が許すかどうか以前に、「関係性が再構築できるかどうか」が司法の焦点になる。

これは単なるAI司法ではない。
関係の未来可能性に基づいた、ポスト法的倫理構造なのだ。

「正しさ」を誰が決めるのか?
その問いを、人ではなく空間に委ねたとき、社会は新しいかたちを取り始める。
ルミナローグの司法は、「見せる裁き」ではなく、「感応する調律」なのだ。

次回は、この調律的な倫理が医療や創作分野にどう波及しているかを探る。

コメント

タイトルとURLをコピーしました