境界が溶けるとき 第3回 「行為と存在の間——『する』ことが消えた社会の静けさ」
レオンは、レガシーネットが好きだ。
ルミナローグ社会において、それはやや奇妙な趣味とされているらしい。XETが意識と情報を最適に繋ぐ時代に、あえて古い、不完全なネットワークを好む。私がその理由を聞いたのは、kissApubのカウンターで彼が何かを黙々と端末に打ち込んでいるのを見たときだった。
「何をしているんですか」と私は聞いた。
「自分で選んでいる」と彼は答えた。端末から目を離さずに。
その一言が、ずっと引っかかっている。
ルミナローグでは、XETが個人の心身の状態を参照して、最適な行動や仕事を提案する。強制ではない。だが多くの人は、その提案に従う。なぜなら、それが心地よいからだ。摩擦がなく、迷いがなく、後悔が生まれにくい。
ノンデュアリティの思想では、「する人」と「すること」の分離は幻想だとされる。行為者という感覚——私がこれをしている、という主体の感覚——は、意識が作り出した物語に過ぎないという見方だ。ルミナローグ社会はその幻想を、テクノロジーによって静かに溶かしているように見える。
「XETが提案してくれるなら、自分で選ぶ必要はないんじゃないですか」と私は聞いた。
レオンはそこで初めて端末から顔を上げた。
「それが怖いんですよ」と彼は言った。「選ばなくても、すべてがうまくいく。でもそのとき、ここにいるのは誰なんだろうって」
私はその問いを書き留めながら、ここにいるのは誰か、と自分に問い返していた。
「する」ことが最適化されるとき、「いる」ことだけが残る。存在と行為が分離し、やがて行為が静かに後退していく社会。それは解放なのか、それとも別の種類の喪失なのか。
レオンがレガシーネットに執着するのは、そこに「自分で選んだ」という手触りが残っているからかもしれない。不完全で、遅くて、時に壊れる。だがその摩擦の中に、「する私」がいる。
「静かすぎる社会は」と彼は最後にぽつりと言った。「時々、自分が透明になる気がする」
次回は、伏見ヨークに「苦しみ」について聞く。XETが痛みを吸収する社会で、悲しむことはまだできるのか。
レイン・オグラ

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