第11回|知で読む──本と記憶の新しい関係性
「読む」という行為は、もはや紙に書かれた文字を目で追うだけのものではなくなった。ルミナローグにおいて「本」とは、物理的な媒体である必要すらなく、人の思考と共鳴し、記憶と重なりながら“現れる”現象そのものを指す。かつて人々が「本を開く」と言ったように、ルミナローグでは「知を開く」と表現する。書物はパピリアを通じて皮膚や神経を通じて“感じる”ものとなった。
読書とはすなわち、感覚による情報摂取である。視覚、聴覚、触覚を伴って読まれるその体験は、テキストの意味に加え、情報そのものの質感や空気感、そしてそれに接した時の自分自身の心理状態までをも一つの“読後感”として記録する。これにより、同じ本を別の日に読み返すとき、ルミナでは自動的に“その人の過去の反応”と共に再構成される。記憶の層が幾重にも重なった読書体験は、「物語を読む」のではなく「記憶と物語を再会させる」ものとなる。
本屋という概念も変化した。街の“光書庫”では、ジャンルやタイトルではなく、“最近よく夢に出てきた感情”や“触れたい概念の温度感”などによって本が提示される。AIスタッフは配置されていないが、空間そのものが記憶と感情を読取り、感応的におすすめの書を照らし出す。読者は歩くだけで自分に合った「ことばの灯り」に触れることができるのだ。
また、読書はひとりの行為である必要もない。いくつかのカフェや静音庭では、「共読会(きょうどくかい)」と呼ばれる文化が育っている。参加者は本を音読することも語ることもしない。ただそれぞれが自分の「知の本」を開き、隣人と共鳴しながら“読む気配”だけを共有する。その場には、ことばよりも“思考の熱”が漂い、時に涙する者がいても、理由を問う者はいない。
印刷や出版という概念は、もちろん依然として存在している。アナログな書籍を好む者も多く、ある種の儀式性を持って紙のページをめくる者もいる。しかし、そうした選択すらも“思考の質感”として記録されるため、むしろ“紙で読む”という体験自体が「思想表現の一形式」として尊重される。出版物はすべて、作者の意識的な振動として蓄積されており、読者は本の冒頭で「この書物の呼吸」や「執筆時の光環境」を感じ取ることができる。
読むとは、知識を得ることではない。読むとは、自分の内にある知識や記憶を“再同期”し、その奥にある忘れていた感情や、まだ名付けられていない風景に触れることだ。ルミナローグにおいて、読むとは「見えなかった自分を知る」ための、最も静かで繊細なテクノロジーである。

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